鹿児島への移住を選択したイラストレーターの大寺聡さんにインタビューしました!
イラストレーター・大寺聡さん(左)のアトリエ「タイムトンネル」の前で。右は鹿児島R不動産代表・冨ヶ原。 〜 鹿児島移住を考えている方へ 〜
南国ムードに魅せられて、自給自足生活に憧れて。鹿児島移住の理由には少し前までこれらのことが挙げられていたように思います。余裕のある大人たちの悠々自適なセカンドライフの拠点といったところでしょうか。今はそれが少し変わり、働き盛りの子育て世代やさらに若い世代の移住が増えてきています。
とはいえ、仕事や子育て環境の問題などのハードルが邪魔をして、関心はあってもなかなか移住に踏み切れない人が多いのも事実。そんな方々の後押しができればと、私たちは鹿児島に移住した先輩方へのインタビューを行うことにしました。移住のきっかけ、仕事のこと、暮らしのことなど、彼らのお話をヒントにあなたの移住プランをイメージしてみてください。
第1回は、2000年に鹿児島の西部に位置する日置市吹上町へ移住してきたイラストレーターの大寺聡さんにお話をお聞きします。
子どもの頃に見た「しっかりとした生活」を求めて
──大寺さんは東京で生まれ育ち、大学卒業後も東京でイラストレーターとして働いてこられました。それがなぜ鹿児島に移り住むことになったのでしょう。
今暮らしている吹上は父の故郷で、祖父が住んでいました。僕の父は大学進学で上京し、そのまま就職したわけですが、毎年夏には僕ら子どもを連れて家族でここに帰省していたのです。親戚が「お帰りなさい」と迎えてくれる世界は東京とはまったく違って、地に足のついた生活というか……しっかりとした生活を送っている感じを受けたのを覚えています。自分が帰るべき場所はここではないかという意識はかなり小さい頃からありました。
──イラストのお仕事は20代後半で軌道に乗り、今では雑誌や広告、WEBにパッケージにと活躍の場を広げていらっしゃいます。クリエイターにとって東京は仕事の数も多く、非常に恵まれた環境に思えるのですがなぜ移住しようと思われたのですか。
僕は東京の家が借りの住まいという気がしてどうしても馴染めなかったんです。父の職員住宅で育ち、一人暮らしを始めてからもワンルームマンションを転々としていましたけど、知らない人に囲まれ、挨拶に行ってもドアすら開けてくれない人がいることに居心地の悪さを覚えて。気持ちの上での限界を感じていたんですよね。移住を強く意識したのは父が亡くなったとき。父が東京に出たままで故郷に戻らなかったということが大きな衝撃で。僕らの世代は父の世代とは逆の流れをつくらないと日本のバランスが悪くなるとそのとき感じたんです。
──ただ、実際に鹿児島に移住されたのはお父様が亡くなられてから10年後ということですよね。その間はどのように過ごされていたのでしょう。
東京になくて鹿児島にあるものを常に比較し、鹿児島の方が自分に合っている、鹿児島でも自分の仕事はできると自信を持って移住するための心の準備をしていました。その後2000年くらいにインターネットが出てきて、自分を情報の波に乗せることができれば住む場所に関係なく仕事ができると確信できたのです。「自分を情報化する」とはどういうことか? 真剣に考えました。それは間違いのないものをつくるということ。相手が求めるものを確実に返すということ。鹿児島から発信すること自体にも大きな意味があって、東京からではなく鹿児島から発信することで、自分の言いたいことがむしろ伝わりやすくなる気がしたんですよね。
──今暮らしているのはお父様のご実家ですが、それ以外に物件探しはしなかったのですか?
ここじゃないと意味がなかったんです。小学生のころに祖父に「お前はここに戻ってこい」と言われたのを覚えていて、吹上しかないと。でも住んでからいろいろわかるのですが、ほかにも鹿児島にはいいところがたくさんありますよ。
鹿児島へ移住を決めるまでの経緯をとても楽しそうにお話しくださいました。インタビュー中は終始笑顔が絶えず明るい雰囲気。 庭には南国の木々をふんだんに。一度始めると2時間はかかるという草刈りは「たまにやりますけど本当に大変」と大寺さん。 お父さんは地域に戻ろう
タイムトンネルから見えるのは一面グリーンの景色。作業中はモニターとこの景色を交互に見つめ、意識の中でデジタルと自然を混ぜ合わせているそう。 ──東京時代と移住後で、仕事環境的にはどんなギャップを感じましたか。
移住前の想像といい意味で違ったのは、こちらの方が情報量がむしろ多いと感じられたことです。インターネットはもちろん使えるし、普通にBS、CSも入る。だからその点で東京と似た情報環境は得られています。でもそれに加えて自然環境が豊かなので、結果的にその分、情報は多いと思うのです。直接自然から得られる情報は作品にも反映させています。
──仕事の面で変わったことはありますか?
仕事について、正直不安はありました。東京の友人には収入が10分の1になると脅されていましたから(笑)。実際はそんなことありませんでした。仕事をしたい意思や日々思うことをブログに書き続けていたら応援してくださる方が出てきて、その反応に勇気づけられながらやってきました。東京時代は東京の仕事ばかりだったのですが、こちらに来てからは東京と鹿児島、さらにはその間にある名古屋、大阪、福岡といった都市からも仕事が入るようになりました。これはちょっと予想外でしたね。イラストレーターズファイルに載っていることやこれまでの実績を見て発注してくださる方が多いとは思いますし、そんなに移住前と動き方が変わったとは思っていないのですが。直接会って打ち合わせするのが好きな人、みんなで飲み歩くのが好きな人は向いていないかもしれないけれど、そうでなければ在宅で働けると思います。
──2006年には自宅の敷地内に大寺さんのアトリエ、通称「タイムトンネル」が完成しました。「住む」と「働く」を両立させた在宅環境がより整ったという感じですね。大寺さんは「お父さんが在宅で働くこと」を昔から推奨してきということですが。
母屋を1999年に建て替え、それからアトリエを増築しました。アトリエは僕のワークスペースですが、階段を降りればすぐ家族の空間です。僕が在宅で働くスタイルを発信し続けているのは、長男が通う小学校の児童数減少が大きな理由です。全盛期は780人以上いたのが今は40人くらい。とにかくお父さんを地域に戻さないことには変わらないと思うんですよ。このあたりは昔はみんな農家だったと思うのですが、「仕事か家庭か」という選択肢はなかったのではないでしょうか。同時にこなすのが当たり前だったはずです。農作業、食事、子供と思い切り遊ぶ。今の様な境界線は、そこにはなかった。日常的に子どもと遊べば体も鍛えられてジムに通う必要もないですし(笑)。在宅傾向が進むことによっていろいろな問題が解決できるのではないでしょうか。
大寺さん宅の1階リビング。仕事と家族の生活はいつも隣り合わせ。 ──在宅で仕事をしながら子育てにも参加する暮らし。東京時代とはまったく異なるライフスタイルですね。
大きく変わりました。仕事と子育てが15分刻みで入れ替わるんです。仕事中に邪魔しに来た子どもを抱きかかえて一緒にYouTubeを見ることもあって、仕事と遊び・子育てが混ざり合っています。それで仕事の質が下がることはない。逆に家庭のことを心配しながら遠くで働いている方が精神的によくない。だから職場と家が近接したかたちに日本全体が変わってほしいと思っています。
──お子さんとの時間をとても大切に、そして楽しんでいらっしゃるのですね。
子どもとの時間は楽しいですよ。9歳、6歳、4歳の男の子がいるのですが、それぞれの思考や世の中との向き合い方が3段階でわかります。例えばうちの4歳児は知ったかぶりで生きているんです。妻の誕生日プレゼントにシャツを用意したときは、真っ先に中身を見た彼が「ああ、これね」と (笑)。お兄ちゃんたちに一生懸命ついていこうとしているのでしょうね。9歳児は弟たちをしつける感情が最近芽生えてきたみたい。彼らといると発見だらけですごく面白いです。
──最後に、これからIターンをしようとしている方に、鹿児島の良さをアピールしていただけますか?
たとえば「田舎暮らし」という言葉を聞いて、古民家を改装して自給自足の生活をしなきゃいけないと考える人が結構いるかと思うのですが、全然そんなことはありません。コンビニに行ったりアマゾンで買い物したりする人ほど来てほしい。それは実際できますし、自給自足は興味があれば目指すくらいでいいのです。鹿児島の良さ云々と言う前に、まずは変に構えてしまっている人に全然そうじゃないということを伝えたいですね。最近勇気づけられた言葉に「やる気があるからやるんじゃなくて、やるからやる気が出る」というのがあります。始めてみたらそれに伴っていろんな能力が自分から生まれ出てくると思うんですよ。とにかく移り住んでみてほしいと。そこからじゃないと考えられないことがたくさんあるんですよ。
キツツキが竹をつつく音に耳を澄まし、「ほら、あそこに!」と森の中を指差す大寺さん。 自宅近くに新たに手に入れた山、通称「オーテマウンテン」。今後ここを活用する計画があるそうです。